gakushu - 720、日本書紀
720、日本書紀
- 2016-8-19 14:03
(NHK20140516)
書紀(720)天武五年九月
「新嘗(おほへ)の為に国郡を卜はしむ。
斎忌〈斎忌、此をば踰既(ユキ)と云ふ〉則ち尾張国の山田郡」
(神聖な酒を奉る地の意から) 天皇の即位後はじめて行なう
大嘗祭(だいじょうさい)の時、神事に用いる新穀・酒料を
奉るように卜定される国郡のうち、第一のもの。また、その斎場。
第二のものは主基(すき)という。
701、大宝律令「班田収授の法」:
土地は国家、民に口分田を与え、田租など納税。
723、三世一身の法。
743、墾田永年私財の法。耕した土地はその人のものになる。
これにより力のある寺社・貴族・豪族などが
口分田から逃げ出した人々を雇い農地を広げ
新しく領地とする「荘(庄)園」の開拓が進む。
当地方の在地勢力としては尾張氏がおり、
山田氏の入郷に対して穏やかならぬものがあったと想像されるが、
十二世紀初めに尾張有信の娘が、山田次郎(重忠)妻となった
という話もあり、このような婚姻関係を結ぶことにより
穏やかに事が進行した事も考えられる。
中世の統治は朝廷-幕府-国司-荘園領主-守護-地頭であったが、
鎌倉幕府成立以後は守護・地頭の台頭が著しく武士の誕生をみる。
『古事記』神武天皇の段には、
国神イワオシワクノコを「吉野国巣(くず)之祖」とする。
また『日本書紀』応神天皇 19年の条によれば、
応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国巣人が来朝し、
醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。
人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。
交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。
その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を
御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、
『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において
吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている(wiki)