gakushu - 456、雄略天皇即位、支配のしくみ
456、雄略天皇即位、支配のしくみ
- 2016-10-26 4:40
(NHK20160506)
「辛亥年(471)七月中記す」
どんなことが刻されているのかというと、辛亥年の7月に記すとして、
乎獲居(ヲワケ)臣という人の系譜を代々述べた後、
ヲワケが代々、守衛の隊長として
「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王:雄略天皇というのが定説)が
「斯鬼宮」(しきのみや)に住んでいた時、天下を佐治した
(大王をサポートした)という経歴が書かれているのです。
辛亥年は471年というのが定説なので、それを信じるとすると、
乎獲居(ヲワケ)臣は5世紀後半の人物で、そこから人物名を遡っていくと、
・加差披余(カサハヨ)
・半弖比(ハテヒ)
・多沙鬼獲居(タサキワケ)
・多加披次獲居(タカハシワケ)
・弖已加利獲居(テヨカリワケ)
・多加利足尼(タカリノスクネ)
となり、先祖は意富比(オホヒコ)で、オホヒコは
第8代孝元天皇の子とされる人物で、金錯銘鉄剣が造られたころは
すでに列島で頂点に君臨する家系に各地の有力者が
系図を繋げようとする系譜意識があったということになります。
「ワケ」を称する人物が3名おり、「スクネ」が1名。
このように4世紀から5世紀の頃は「ワケ」や「スクネ」などが
列島各地の有力者の称号で、この当時の日本人にはまだ
姓(カバネ)はありませんでした。
ところが、5世紀後半にはヤマトにいた列島の最有力者、
つまり天皇家の人物が中国から「倭」というカバネをもらい、
また、列島各地の有力者の中から一人だけ突出して
「大王(オオキミ)」を称することになります。