gakushu - 1877、木戸孝允が没する
1877、木戸孝允が没する
- 2016-10-31 10:05
(日テレ20160330)
生涯を通じて音楽に強い関心をもっていた
ニーチェは学生時代から熱烈なワーグナーの
ファンであり、1868年にはすでにライプツィヒで
ワーグナーとの対面を果たしている。
ワーグナーは31歳も年の離れたニーチェを
親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、バイロイト祝祭劇場の
建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させた。
近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを
「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に
高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、
美術史家ヴィンケルマン以来の伝統があった。
当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、
ドイツ3月革命に参加した革命家でもあるヴァーグナーもまた
この系譜に属している。
『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った
古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命
によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して
再び自由と美と高貴さを獲得しうる、との
ロマン主義的思想が述べられている。
1876年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場での
『ニーベルングの指環』は通俗的だと酷評され
ワーグナーはノイローゼに、
ニーチェも失望し1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』
を出版してワーグナーと決別した。。
交通事故やジフテリアで悪化し静養の為
サンモリッツやトリノ、ニースなど点々と年金生活を送った。
妹は反ユダヤ運動家とパラグアイにドイツ的コロニー建設
計画を立てて旅立った。
その後の三角関係の恋愛の破綻などを経て、
1883、『ツァラトゥストラはかく語りき』を書き始める。
ヴィンケルマンが古代ギリシアの彫刻と考えていた
作品の多くは、実際にはローマ時代の模刻であった。
実際の古代ギリシャの大理石彫刻は彩色があったが、
ヴィンケルマンは「古代ギリシャは純白の文化」と
論じたため、その後、エルギン・マーブルなどの
ギリシャ彫刻が博物館で表面を削られる事件が何件か起きた。