gakushu - 1894、日清戦争
1894、日清戦争
- 2016-10-31 10:35
(NHK20140920)
1860、プロイセン王国の遠征艦隊が山東半島の青島を調査
1896、
日清戦争に三国干渉した露・仏に比べ、独は中国進出が遅れていた。
ドイツ東洋艦隊の司令官が山東半島の拓殖を計画。
1896年、フランス市街地、日本の京都:
1897、独宣教師殺害(鉅野事件)を口実に湾岸全域を占領。
1898、
独清条約を結び、山東半島を99年間清国政府から租借。
以降、露、英、仏も99(久久=永久)年租借を締結。
1899、基地建設。
1900、植民地都市建設が加速。
1914、
第一次世界大戦が勃発。日英同盟に基づき日独戦争開始。
山東半島を中国に返還するよう最後通牒を通達。
独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」(8月15日)
支那国への返還は当初からの予定であったが商業権益は
日本政府及び日本人が引き継ぐべきと考えており、
戦時国際法によりドイツ海外領土の軍事占領を継続する必要があり、
返還を含めた最終協定はドイツとの講和条約を待つ必要があった。
日本政府は袁世凱大統領と直接交渉をおこなう。(対華21ヶ条)
この条約により山東省の権益は正式に日本が引き継ぎ、
青島はドイツ講和まで日本軍が統治することとなった。
1917、青島守備軍司令部が軍政を敷き、以降は民政長官が施政。
1919、パリ講和会議で日本に譲渡、民衆は反発(五四運動)。
1922、中国政府に返還(ワシントン体制)。現地日本人は約2万人。
1926、
張作霖の北京政府撲滅のため、将介石が北伐開始。
北伐軍の租借地接近を列強が警戒するも、
幣原内閣は内政不干渉の方針(ワシントン体制)に基づき、
アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。
(1932青島市街:絵葉書)
1927、
北京議定書(1900)以降の列強駐屯に対する反帝国主義運動高まる。
将介石の北伐軍が南京に入城。軍人や民衆の一部が外国の領事館
や居留地などを襲撃、将介石は、上海に戒厳令を布告、
共産党指導者90名を処刑。張作霖がソ連大使館を捜索、極秘文書に、
・外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、
・短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、
・在留日本人への危害を控えること、
・排外宣伝は反英運動を建前とすべき
との指令を発見。
ソ連は中華民国と断交、続いて英国がソ連と断交。
1928、将介石の北伐軍が北京入城。孫文の遺志を果たした。
1931、将介石は国共内戦があったため満州国を黙認。
1941、
東條英機は中国本土に無賠償、非併合を声明しており、
最終的に経済制裁を解除のための防共駐屯を25年とする案で
アメリカ国務長官ハルは暫定協定案をまとめた。
南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除
というアメリカの対案を提示したが将介石は、
アメリカは中国を犠牲にして日本と妥協するとして激怒、
チャーチルもルーズベルト大統領を説得した。