「勉強なされい」(吉田松陰:大河ドラマ花燃ゆ)

gakushu - 1917、ロシア革命

1917、ロシア革命

   2016-10-31 11:14  

(NHK20151025)

 

 


1917年アメリカも参戦、
ドイツ=悪、ビールつまり悪。だから禁酒法

(TV東京20181111)



 

 

この年、作曲家ラヴェルも
パイロットに志願、出兵。

(NHK20140314)



 

 

 

言うまでもないが、ロシアでは何度も革命が起きている。だが革命が成功する前には必ず、
既存体制の権力基盤が崩れ始めていた。例えば日露戦争での敗北後に起きた1905年の革命。
全く想定外の敗戦だったから、失望した民衆の抗議活動や武装蜂起が続発した。それらは
全て暴力的に鎮圧されたが、皇帝の権威は傷ついた。

 

やむなく皇帝ニコライ2世は改革に踏み切り、憲法の制定や議会の創設に応じた。
しかし2年後、1907年の反革命クーデターでニコライ2世は復権を果たし、
新設の議会を形骸化させてしまう。それが可能だったのは国家機関の内部に、
あくまでも皇帝に忠誠を誓う部隊がいたからだ。具体的に言えば秘密警察と軍隊、
そして身辺警護のコサック軽騎兵だ。

 

しかしこれらの部隊も、1917年のボルシェビキ革命では皇帝とその体制を守り切れず、
帝国の命運も皇帝の命も絶たれた。3年来の世界大戦で、軍隊も国内経済もすっかり
疲弊していたからだ。思えば1825年にはデカブリストの乱があり、1881年には
皇帝アレクサンドル2世の暗殺があった。そうした積み重ねで、1917年の
ロシア革命は成就したのだ。

 

 

 

 

エリツィンの巧妙さ


そして旧ソ連から現代ロシアへの(それなりに平和的な)革命に当たっても、
実は複数の要素が複雑に絡み合って反体制派を利していた。あのとき民衆を率いたのは
ボリス・エリツィンだが、彼もナワリヌイ同様に大衆の不満をうまく利用し、
いわゆるポピュリスト(大衆迎合主義)の戦術で勝負した。

やがてエリツィンは、ソ連邦を構成する共和国の中核であるロシアの大統領に就任した。
連邦を構成する多数の共和国を実質的に率いる立場だ。そして1991年8月の共産党による
「反革命」クーデターを阻止し、一躍新生ロシアの「顔」となった。

 

あのとき、制度的には共産党側が軍隊を含む国家機関を掌握していた。
だが軍隊は動かなかった。首都を守る軍隊がデモ隊の市民を蹴散らすことはなく、
エリツィンを逮捕せよという命令に従うこともなかった。一方、共産党側も流血の
事態は避けたかった。だから抵抗を諦め、クーデターは失敗に終わった。
勝ち誇るエリツィンは2年後、当時と同じ軍隊を動かして自らに対する反乱をつぶしている。

(Newsweek1月号 2021 )

 

 

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