gakushu - 1905、ポーツマス講和条約
1905、ポーツマス講和条約
- 2016-10-31 11:54
(NHK20160512)
1894、清の慶親王が、英国が示した調停案を拒絶し日清戦争。
1896、
清国は、対日賠償金の借款供与と引き換えに
ロシア外務大臣ロバノフと露清密約を締結。
満州でのロシア権益や駐屯を了承したことで、
現地でのアジア人に対する治安が悪くなってゆく。
(同日締結された山縣・ロバノフ協定では、朝鮮独立の保証、
朝鮮の財政改革、電信推進、警察・軍隊の近代化、を相互確認)
1896年、ベネチア、イスタンブール:
1904、
2月に日露戦争、
5月にロシア軍を撃破。
5月、清の慶親王が露清密約を公表、破棄を訴えたが、
ロシア帝国側でも満州は既に支配下の半植民地状態であり、
日露戦争の原因となった密約の存在が国際的に周知
されただけだった。
1905、
ポーツマス講和会議。
清国が同会議への出席をルーズベルト大統領に訴えるが、
戦争当事国でない国の講和条約会議への出席は、
英国や米国などの欧米が許さず、当事国も承認しなかった。
ポーツマス条約で、南満州鉄道や関東州の租借権などの
満洲利権が日本に認められた。
清国袁世凱と小村寿太郎の間で協議が行われ、
満州善後条約として締結された。
これらの条項は辛亥革命以後も北洋政府・奉天軍閥
などに継承された。
1906、
満鉄の設立が逓信大臣より認可。
創立会は神田区の東京キリスト教青年会会館にて開催。
満鉄設立を不当とする清国は出資せず
ロシアから引き継いだ利権1億円相当を現物出資、
国内株式から2000万、外資から8000万、
そのほとんどはロンドンで調達。
また、政府系興行銀行の資金調達先は
74%を米英資本に依存していた。
中華民国建国後、日本の支援下にいた
奉天派の張作霖が何者かによって殺害される(張作霖爆殺事件)と、
満州の奉天軍閥を継承した息子の張学良が同条約を否認して
併行鉄道の建設を推進し、満州事変の遠因となった。
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