gakushu - 1615、「平和元年」大阪夏の陣
1615、「平和元年」大阪夏の陣
- 2017-9-13 23:38
(NHK20171001)
■■■ 大坂城の落城 ■■■
慶長20年(1615)5月、大坂城は徳川軍の猛攻により、
ついに落城した(大坂夏の陣)。これにより豊臣秀頼と母の淀殿は
自害し、豊臣氏は滅亡した。
大坂城落城後は、さながらの地獄絵図のようだった。
『長沢聞書』という史料によると、豊臣方の死者の数は
18,350人と伝えている。
勝利した徳川方は別として、牢人(浪人)に加え、
普通の庶民が数多く大坂城に籠城した豊臣方の
落人の運命は実に悲惨だった。
実際に大坂の陣に従軍した大久保忠教(彦左衛門)は、
自身が執筆した『三河物語』の中で、
次のように落城後の様子を記している。
大坂城に籠もった衆で命を長らえた者は、
多くは具足を脱ぎ捨て裸になって、女性とともに逃げ散った。
多くの女性は、北国、四国、九州、中国、五畿内、関東、
出羽、奥州まで売られてしまった。
人買い商人の浅ましさは、『義演准后日記』にも記されている。
人買い商人は略奪した人々を、ときに海外にまで売買する
ことがあった。戦国期にも人買い商人が暗躍した例が
知られているが、大坂夏の陣でも見事に再現されたのである。
(歴史と文化の研究所)
公家諸法度と「平和元年」
(NHK20190101)
浅井長政の家臣の娘「おきく」は、幼少から淀殿に仕えた縁で
大坂城に籠城していた。落城時に「おきく」は、大奥の女中が
途方にくれていたが、松平信綱の指図によって無事に脱出した。
そして、脱出の途中に略奪にあったことについて、
『おきく物語』の中で次のように語っている。
竹束の陰から、単物を着た者が錆びた刀を持ってやって来て、「金があれば出せ」
と言われたので、懐から竹流しが2本あったので、これを差し出した。
竹流しとは竹筒に金銀を鋳込み、必要に応じて切り離し、貨幣とした
竿金のことをいう。おきくは乱入した兵に金品を要求されたが、たまたま
所持していた竹流しを与えることにより、難を逃れたのである。
秀吉が流通させた、竹流し金=1個 約100g
(現在では1グラム2000円)