gakushu - 中高_歴史_0000カテゴリのエントリ
(NHK20151105)
(NHK20151110)
(NHK20160506)
「辛亥年(471)七月中記す」
どんなことが刻されているのかというと、辛亥年の7月に記すとして、
乎獲居(ヲワケ)臣という人の系譜を代々述べた後、
ヲワケが代々、守衛の隊長として
「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王:雄略天皇というのが定説)が
「斯鬼宮」(しきのみや)に住んでいた時、天下を佐治した
(大王をサポートした)という経歴が書かれているのです。
辛亥年は471年というのが定説なので、それを信じるとすると、
乎獲居(ヲワケ)臣は5世紀後半の人物で、そこから人物名を遡っていくと、
・加差披余(カサハヨ)
・半弖比(ハテヒ)
・多沙鬼獲居(タサキワケ)
・多加披次獲居(タカハシワケ)
・弖已加利獲居(テヨカリワケ)
・多加利足尼(タカリノスクネ)
となり、先祖は意富比(オホヒコ)で、オホヒコは
第8代孝元天皇の子とされる人物で、金錯銘鉄剣が造られたころは
すでに列島で頂点に君臨する家系に各地の有力者が
系図を繋げようとする系譜意識があったということになります。
「ワケ」を称する人物が3名おり、「スクネ」が1名。
このように4世紀から5世紀の頃は「ワケ」や「スクネ」などが
列島各地の有力者の称号で、この当時の日本人にはまだ
姓(カバネ)はありませんでした。
ところが、5世紀後半にはヤマトにいた列島の最有力者、
つまり天皇家の人物が中国から「倭」というカバネをもらい、
また、列島各地の有力者の中から一人だけ突出して
「大王(オオキミ)」を称することになります。
(TV東京20150107)
古代ローマのころにはドーバーは重要な要塞港とされ
「ポルトゥス・ドュブリス」 (Portus Dubris) と命名された。
ドーバーは古代ローマ街道「ワットリング街道」
(Watling Street) の起点とされ、「ブリタニカ艦隊」
(classis britannica) の重要な港であった。
60年、ワットリング街道の戦い:敗戦後410年までローマ支配下に。
詳細→YouTube:Kings and Generals
ローマ人は今のドーヴァー城に当たるところに、
灯台を築き50年には稼動していた。これは
イギリス最古の建造物の1つとされている。
【関連】1670、ドーバーの密約
(NHK20151110)