「勉強なされい」(吉田松陰:大河ドラマ花燃ゆ)

gakushu - 中高_歴史_1850カテゴリのエントリ


詳細→YouTube:hayashism17

 

 

 

天然痘パンデミックのきっかけとなったのは,1870年7月に
始まった普仏戦争。


軍隊では限定された空間内での集団生活を強いられる上,
(難民も含めた)感染者が広大な地域を移動するため,
戦争時に伝染病が爆発的に流行する現象は珍しくない。

普仏戦争勃発時,フランスではすでに天然痘の流行が
始まっていた上,プロシア軍が捕虜としたフランス軍兵士を
自国に連れ去って収容したため,天然痘感染はフランスからプロシア,
そして周辺国へと拡大することとなった。

 

 

 短期決戦論者のモルトケが勝利してしまったことで、
結果的にその後の世界戦争の戦術は短期決戦を中心に
計画されてゆくことになる。

 

 

 

 

 

 

パンデミックの凄まじさは,
フランスでは1866年の593人が,
流行が始まった1869年に4169人と増加した後,
普仏戦争の1870-71年には6万-9万人へと激増。

また,プロシアにおける死者数は,
1870年の4200人から,
1871年5万9839人,
1872年6万5109人と急増,両国とも
一般市民に甚大な被害が及んだのは共通だった。

 

 

対照的に,軍隊内における感染を比較したとき,
普仏二国の違いは激烈だった。兵士数100万人の仏軍で
感染者12万5000人(見積もり),死者2万3470人
に達した一方で,

兵士数80万人のプロシア軍は,感染者8463人,死亡者459人と,
天然痘の被害は「桁違い」に小さかった。

 

 

 

 

 

 ドイツ統一のためのナショナリズム形成を目論見、
プロイセン王国は全ドイツ共通の敵を必要としていた

。そして、スペインで発生した
スペイン1868年革命による女王イサベル2世
のフランスへ亡命後のスペイン王位継承問題で
プロイセンとフランスの対立が高まる中、

プロイセン首相(北ドイツ連邦宰相)ビスマルクは
「エムス電報事件」でフランスとの対立を煽り、
また北ドイツ連邦と南部諸邦の一体化を図った上で、
フランス側に開戦させた。


フランスはプロイセンのみに宣戦したが、
ドイツ諸邦はプロイセン側に立って参戦した。

 

 

 

 

 

なぜ両軍にこうも大きな違いが出たかというと,
プロシア軍では,1834年以降,兵士に対して入隊時およびその後は
7年ごとの天然痘ワクチン接種を義務付けていたからだった。

しかし,兵士への再接種を義務づけていたプロシアでも,
一般国民へのワクチン接種は義務付けていなかったため,
市民の感染・死者はフランスと同規模だったのである。(医学書院)

 

 

 1870、皇帝ナポレオン3世統治下のフランスには
艦船470隻を擁する海軍があり、これを上回るのは
イギリス海軍のみであった。

北ドイツ連邦が保有していた艦艇の数は、その1/10を
わずかに上回るのみであり、5隻の装甲フリゲートで
北ドイツ(英語版)の海岸線を守ろうと試みた。

もしフランスが海上における優勢を有効に活用できていれば、
その戦争への影響は大きかったと言われている(wiki)
 

 

 




詳細→YouTube:Lilis0S

(NHK20140329)



 

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