gakushu - 中高_歴史_1500カテゴリのエントリ
(NHK20160306)
(NHK20141029)
(NHK20160211)
三河煙火史:
天文12年(1541)西洋式鉄砲及び火薬の伝来により、
鉄砲は大筒をうみだし、各武将によって改良が加えられ
軍事的武器へと発達し、その重要性と秘密性は
ますますその度合いを深めていったのである。
その中でとくに昔から火術に関係の深かったのが三河地方で、
戦国時代において三河武士が千軍万馬の間に名をはせた。
徳川家康は、早くより火薬の威力を利用し、
三河の青年武士からなる鉄砲隊を編成するとともに、
細川家を追放された稲富流砲術師範・稲富伊賀守直家を召し抱えて、
鉄砲鍛冶の指導にあたらせた。
詳細→YouTube: 歴史じっくり紀行
さらに津田流砲術の根来衆を
加えてますます鉄砲・火術の拡充をはかり、
より強大にしていったのである。
かくして天下統一の偉業をなしとげたのである。
反乱や一揆に対し必要以上に神経過敏であった家康が
もっとも恐ろしい殺人武器である火薬および硝石の採取
などを幕府発祥の地である三河のみに限らせ、かつ
三河においてのみ製造貯蔵を奨励したのは、
全く当然のことであり、ここにおいて
「お国もの」の特権が生じたのである。
徳川家康の開府後は、各藩の鉄砲・火薬の製造を
厳重に制約され「お国もの」の特権は更にその
強大さをほこっていったのである。
徳川300年の泰平の時代になるに至って、
稲富流の砲術・火術である軍事用の火術は
重要性が弱まり、平和の煙火へと変化し、
稲富流火術は稲留流煙火となり更に分派して
稲穂流をはじめその他多数の流派をうみだしていったのである。
(NHK20150519)
(NHK20141016)