「勉強なされい」(吉田松陰:大河ドラマ花燃ゆ)

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   2015-8-2 15:41  

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1501、イラン、サファヴィー朝
1502、ブラジルのサルバドール「発見」
1506、新大陸遠征の拠点にドミニカ
1508、天体の逆行運動とコペルニクス
1514、画家マサイス『両替商とその妻』
1515、画家ティチアーノ、鏡像という画題
1521、マゼラン、ラブラブで死す
1526、バーブル(虎)大将、ムガル帝国建国

1529、丹波の赤鬼「悪右衛門」

1533、フランス王アンリ2世と菓子職人

1533、インカ帝国が滅亡

 

 

 

 

1542、家康誕生

1535、ミケランジロの憂鬱

1546、官兵衛誕生

1543、鉄砲伝来

1549、元の木阿弥「筒井順昭」

1551、上杉謙信が越後統一

1553、武田信玄が川中島に侵攻開始

1553、安土桃山時代の志野の銘椀

1555、アクバル即位ムガル帝国3代目
 
1555、信長が清洲城を居城に
1555、川中島の合戦、2回戦
1556、織田家抗争、稲生の戦い

1559、家康の長男「松平信康」

1560頃、安土桃山、志野の茶碗

1560、桶狭間(ドラマ信長協奏曲)

1561、イエズス会「堺は東洋のベニス」

1561、啄木鳥(キツツキ)戦法

1561、川中島の合戦

1564、シェークスピアの一生

 

 

 

 

1564、三河平定

1565、井伊直虎、オンナ城主誕生
1566、豊臣秀長の一夜城
1567、真田幸村の誕生日
1567、織田信長の美濃進駐
1568、信長の京都上洛

1568、敵に塩を送る

 
1570、姉川の戦い
1570、朝倉征伐
1573、三方ヶ原の戦い、家康
1573、信長ピンチ、災異改元と足利将軍

1573、消えた谷間の幻の都市

1575、長篠の戦い、織田vs武田
1575、長篠の戦い、武田軍の末裔

 

 

 

 

1576、信長と村上水軍

1577、老舗の年表
1577、毛利攻め

1579、安土城完成

 
1580、トレドの揚水装置(天正遣欧使節団)
1582、高松城の水攻め
1582、天正壬午の乱、北条vs徳川
1582、実況中継「本能寺の変」
1582、「行こうパンツ」で太閤検地

 

 

 

 

1583、動く合戦絵巻

1583、大阪城つくり始める
1584、四国統一
1585、秀吉が関白に

1586、九州平定

1587、黒田官兵衛、大分の都市整備

1587、「鬼島津」義弘vs秀吉

1588、伊達政宗が山形へ

1589、家康、秀吉と北条の仲介を断念

 

1590、秀吉、関東平定

1592、デルモンテ枢機卿、カラヴァッジョ
1596、慶長元年
1598、「運がめぐって参りましたなぁ」

1598、関が原の準備

15xx、南米のつりはし

 

 

(TV東京20131229)

 

 


 1560年、確認できる世界最古の「逆あがり」オランダ

(NHK20150408)



 

1050、ミャンマー仏教伝来

   2015-8-2 15:24  

(TV東京20140211)

 

 

 

 

 

 

911
バイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が
キリスト教への改宗と臣従を条件に領地として与えたことに始まる。
海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立された。




1002
イングランド王は、デーン人に対抗するべく
ノルマンディー王の姉妹エマと結婚、連携強化。

 



1016
デーン人英国に侵攻 
→デンマーク・ノルウェー・イングランド複合王国(北海帝国)誕生。


1035
ノルマンディー王がエルサレム巡礼先で死去すると、
幼年で征服王が即位し、諸侯が反乱。
これに仏アンジュー伯が介入。
征服王がフランドル伯の娘と結婚、同盟強化。
フランスで三つ巴の勢力争いが生まれる。


1066
イングランド王の継承争い。
北海帝国のノルウェーやノルマンディー征服王が
イングランド侵攻。ノルウェーは敗退するも、
ノルマン軍の偽装後退に堅牢なイングランド軍の
戦線が崩壊、アングロサクソン系が征服された。
(ノルマン・コンクエスト)

 

 

 





1077
英国、王族家族の一家団欒、
サイコロ遊びの最中にウンコ事件 →相続争いへ


 




詳細→YouTube:ゆっくり歴史解説

 

 

 

 

「イングランド征服王」ウィリアム1世には3人の息子。(次男は早逝)

長男の「ロベール」には「ノルマンディー公国」。
三男の「ウィリアム」には「イングランド王国」。

長男が「ノルマンディー公国」を継承しているのを見ても、
ウィリアム1世にとって、あくまでも自分の本拠地は「ノルマンディー公国」。
「イングランド王国」は広大といえども、単なる植民地・・・。
こんな認識であったろうと思われます


1087、ウィリアム1世がノルマンディー公国で危篤に陥ると、
三男の「ウィリアム」は大急ぎで海を渡ってロンドンへ向かい、
ウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行。
「ウィリアム2世」としてイングランド国王に即位します。

 

 

 

 

 

 

 

 公的な場での英語の復活は十四世紀後半以降のこととなった。

(NHK20140226)



 

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